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【アラベスク】  第7章 雲隠れ (後編)



第3節 流砂の底 [8]




 誰か、俺を認めてくれ。俺だけを認めてくれ。
 俺だけを……

「コーチの身体は一つじゃない。このチームはお前だけのモノじゃないんだ。質問は順番だ」

 俺のモノ。

「テレビは一日一時間でしょ。家族みんなのモノなんだから、約束は護りなさい」

 じゃあ………

「今回のテスト、100点取れたのは家庭教師の先生のおかげだな。ちゃんとお礼を言っておくんだぞ」

 じゃあいったい、俺のモノって…… 何?

 ぼんやりと見上げる先で、里奈と優輝の視線が交わる。優輝は薄っすらと笑い、里奈は全身を震わせる。
 里奈―――
 失恋した美鶴に誤解され、彼女との間に亀裂が入ると、里奈は優輝から離れていった。同じ高校へ進学し、里奈が登校拒否になると、さらに優輝から離れていった。
 万引きの件などをチラつかせても、里奈は戻ってはこなかった。
 美鶴を失った里奈には、もはやどんな脅しも通用しない。
 それほどに美鶴は、里奈のすべて。
 だが同じように、優輝にとっても里奈はすべて。そう、すべてを投げ出しても手に入れたい存在。
 唯一、自分に従順な存在。自分を受け入れ、認めてくれる。否定しないでくれる存在。
 そんな里奈が、愛おしかった。
 これは愛じゃない?
 嘘だ。俺は里奈を愛している。
 俺は俺なりに愛しているんだ。
 里奈が離れていき、やがて優輝の生活は(すさ)んだ。里奈のために取り繕った体裁だ。里奈がいなければ意味はない。
 勉強だってサッカーだって、どれほど頑張っても誰も認めてはくれない。間尺に合わない努力など、もうウンザリだった。
 高校では、サッカー部には入らなかった。もともと、親のサッカー好きに影響を受けただけだ。サッカーで活躍すれば親に褒めてもらえるだろう。そんな、今思えば鼻で笑ってしまうような、可愛らしい子供心で始めたのだ。心底好きだったワケでもない。
 学校もサボりがちになり、やがて繁華街で過ごす事が多くなった。
 目的もない虚ろな毎日の中で、気がつけば目の前には里奈の幻影だけを見ていた。里奈が愛知県に移ったのを知ると、優輝も拠点を愛知県へ移した。
 誰もが他人へ無関心。ただ空騒ぎだけが撒き散らされる。そんな中身のない賑々しさが、里奈のいない空白を埋めてくれるようだった。
 あれほど認めてもらいたいと思っていたのに、冷たい無関心が、これほど心地良いだなんて。
 親は、そんな優輝を叱咤した。

「お前がそんなヤツだとは思わなかったぞっ!」

 何言ってんだよ。
 父親の拳にもせせら笑う。
 もともと俺のコトなんて、大して認めてもいなかったクセに。
 やがて優輝は、家にも帰らなくなった。学校も辞めた。クスリも覚えた。あっという間に、世界が変わった。
 それはまるで、流砂のよう。
 どこかで誰かが優輝を哂う。
 あの子、きっともともとはあんな子だったのよ。
 頑張っても認めてはもらえず、なのに堕ちれば納得される。
 そうだ。誰にも認められず、何も与えられなかった。
 なんて俺は、哀れな存在。
 いいさ、俺はそういう存在。
 どうせ世の中なんて、そんな存在。誰も何も、ウザいだけ。
 ただ一人、従順な里奈だけがいればいい。
 もはや抜け出せぬ世界の中で、一人里奈だけに執着した。
 聡に蹴り上げられ、床に横たわりながら里奈だけを見つめる。
 周りの人間にどう見られようと、そんな事はどうでもいい。
 ただ一人、里奈だけを。
 長い睫毛の下から見せる、丸く円らな黒々とした瞳。潤んだ瞳には、恐怖しか浮かんでいない。
 その恐怖を与えたのが自分なのだと思うと、優輝はなぜだか嬉しかった。

 そう――― 嬉しい。
 だってその恐怖は、俺だけが与えることのできるモノだから。

 里奈、俺はただ、俺だけのモノが欲しかった。
 俺だけのモノが、欲しかったんだよ。







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